渋沢栄一と藍
江戸末期、天保11年2月13日(西暦1840年3月16日)に渋沢栄一は埼玉県深谷の血洗島で生まれました。
栄一の家「中の家(なかんち)」は農家の中でも裕福な家で、家業の畑作や養蚕、藍を栽培し、染料となる藍玉を製造していました。
さらに、藍を栽培している農家から藍を買い付け、作った藍玉を紺屋に販売していたのでした。
栄一は、幼い頃から父に学問の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学んでいました。
勉学や剣術に励む一方で家業にも興味を持ち、父親に同行しながら商売を学んでいったといわれています。
10歳の栄一少年、父の背中を見て学んだ藍の目利き力は大人も顔負け。優秀な父のDNAをしっかり受け継いでいきました。
17歳頃から、信州・上州・武州秩父にある得意先廻りは栄一の仕事となっていきます。
当時、藍葉の不作により村全体が消沈している中、どうしたら窮地を脱することができるかを考え他の村へ行き、藍葉を買い付けに行くことに決めた栄一。
当時江戸では野良着としての藍染着物から、江戸ファッションとしての藍の着物が流行していました。
異国人がジャパンブルーというほどに、店の暖簾や着物すべてがジャパンブルー=藍に見えたといわれています。
秀でた企画力を発揮
栄一は、武州の藍の品質を上げ、今までより高く売り、同時に生産者を儲けさせてさらに品質の良い藍をつくってほしいと交渉し、見事に成功するのでした。
商品価値を売るのということでした。さらには、下記のような番付「藍玉力競」をつくり、競い合わせることで生産者の士気を高めていきました。
大関を上席に座らせて藍づくりのノウハウを語らせたりもしていったと言われています。
この番付は、今の相撲の番付のよう。情報を共有数rことで地元の藍生産を盛り上げようという戦略です。
ドラマで使われた武州藍自慢の番付表「藍玉力競」
WINWINの手法
武州の藍葉を発酵させて100日、蒅(すくも)ができます。
非常に長き貴重な作業です。
藍染めは徳島の阿波が有名ですが、武州の藍染めもそれに負けじとやってきたことが、今も阿波、武州では本格的な藍染め製法が続いています。
藍葉の不作により村全体が消沈している中、どうしたら窮地を脱することができるかを考え、他の村へ行き、藍葉を買い付けに行くことに決めた栄一。
父とともに江戸に行ったときに感じた商売の難しさを見て覚え、そして自ら自分も実行するという強い意志があったからこそ、藍葉の買い付けに成功したのでしょう。
また、商売の交渉も、まずは相手を褒め、相手も得になる方法、お互いがWIN WINになれる方法を考え、銭をケチらずここぞというときに使う度胸は、見習うべきところもあるかもしれません。
働く人とその価値を見極めてからこその交渉術なのでしょう。
藍をどうやって売るかということから渋沢栄一の偉業がスタートしたのでした。