2024年に新1万円札の顔になる渋沢栄一。
渋沢栄一は、江戸末期の天保11年2月13日(1840年3月16日)に埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。
深谷のイメージといえば、深谷ねぎなどのブランドを含む数々の新鮮野菜がたくさん採れ、最近では東京にも近い場所として農業をやりたいという若者が移住している所。
裕福な農家の家庭に生まれた栄一は、父からビジネスを学び、従兄尾高惇忠からは「論語」を学んでいました。
その当時の家業は、畑作、藍玉の製造販売と養蚕。少年の頃、父の後をついて藍玉の販売について見聞きし、自分なりの商売の方法を考えていきました。
渋沢栄一の実家「中の家(なかんち)」
この中の家の敷地内に、栄一の旅立ちの像があります。
着物姿の栄一の像はなかなかないもののようですが、ここでは唯一、若かりし栄一銅像があります。
その後、若き栄一少年はより良い質の藍を育ててもらうために武州を中心に農家を回ります。
質の良いものは高く購入するということで各農家を競わせます。
番付をすることで士気を高め、その品質をもって高く買ってもらい、藍玉事業を発展させていきました。
血洗島という地名
渋沢栄一の出身地、埼玉県深谷市の血洗島。地名が独特ですね。今も血洗島の地名は健在です。
この血洗島というのは、非常に物騒なイメージの名前でもあり、血生臭い名前であり、怖い名前でもあるので、何故このような地名がついたのかその地名の由来を調べてみました。
その由来には諸説があり、定説はないようですが、その中でも地元で妥当と考えられている説は、この地は利根川の洪水が多く、地が洗われたという意味で「地洗(ちあらい)」、また地が荒れるという意味で「地荒(ちあら)」と呼ばれたのが、いつの間にか「地」が「血」となり、「血洗島」となったという説のようです。
『日本歴史地名大系』には、「後三年の役の頃、源義家が利根川の戦いで片腕を切落され、当地でその血を洗い流したという伝説がある。」とだけ書いてあるようです。
その後、日の本の為に、「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。
ここで一度妻千代や子供を残して故郷を離れていきます。
郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。
血洗島から日の本を変える事を目指し、進んだ栄一。
深谷はのどかな景色の反面、夢をもつ青年たちが今も渋沢栄一の思想を受けて新たな道を切り拓く人たちで活気のある空気が感じられる町です。
武州の藍染めをはじめ、新鮮で豊富な野菜、食べ物は、生きるための活力を私達にも与えてくれそうな気がします。