渋沢栄一の活動とそのあゆみ『少年期から青年期』
渋沢栄一の再発見とあゆみから見る現代『少年期から青年期』
2024年、新一万円札の顔になる日本資本主義の父、渋沢栄一。明治の近代化を先導した功労者として高く評価されていたが、あまりメジャーは歴史人として大きくはとりあげられていなかった。
昭和の戦前戦後の動乱の中で歴史人として表に出るものと思いきや、90年代のバブル崩壊という日本経済が深刻な不況に見舞われ、さらには2008年リーマンショックが起こり、一部の研究者の中には、日本のみならず産業革命以来長い間世界の経済を支えてきた資本主義体制の欠陥を補うような知恵や戦略が隠されているのではないかという観測や期待が浮上するようになったという。それから、ここ世界の覇権争いやパンデミックの中で混沌とした状況にいり私たちが今渋沢栄一の生き様を再度見直し、今の世に通ずるものを見出していきたいと思う。
まずは、江戸、明治、大正、昭和という4つの時代を生き抜いた渋沢栄一のあゆみから学んでみたい。
生誕地の風景
渋沢栄一の類まれな商才の感覚は、育った地理的環境も大いに関係があったのではないだろうか。
出生地、埼玉県深谷市血洗島(当時の武蔵国榛沢郡血洗島村)は、「新編武蔵風土記稿」によれば、天正年間(1573~92年)に開かれ、5軒ほどであったのが、江戸時代後期には50軒ほどになり、石高346石余の村であった。
北方には利根川が流れ、昔からよく氾濫し、河道の変遷も激しかった。血洗島村は水田がわずかで殆どが畑だった為、周辺地域では藍作、藍玉製造が盛んで武州秩父郡や上州、信州などに販路を持つ家が多かった。近隣には船客の乗継場であって船荷の積み替え所となっていた利根川中瀬海岸があった。水運を利用した物資の積み込み、荷揚げも盛んで、旅人の乗り降りも多く、廻船問屋や旅籠などが立ち並んでいた。通行する船の検査を行う場所でもあり、いつも多くの船が停泊していた。また中瀬海岸は、中山道深谷宿から分岐する脇往還北越街道と結ばれ、そばに渡船場もあり、上州を経て越後へ通じる交通の要衝地であった。
南方の中山道深谷宿は、江戸まで19里(約4km)程の所に村を支配する岡部藩の本拠・岡部陣屋(武州国大里郡岡部村内)があった。大手門は中山道に接し、周辺街道沿いには深谷宿と本宿宿の間にある「間(あい)の宿」となって賑わっていた。渋沢栄一の生まれた血洗島の周辺はそうした中瀬河岸と深谷宿や岡部の中ほどに位置し、旅人の往来や物資流通が盛んとなっており、政治や経済、文化などの新しい情報も入りやすい環境にあった。
多感な少年期
まず、外せないところは、恵まれた土地柄と身分の生まれ。実業という面からみると父親の背中をみてきたところが非常に強いのではないだろうか。父一郎右衛門は実業については非常に厳格で、物惜しみすることはなく、親せきや近郷近在で困っている人がいれば、世話や支援をし、誠実に実務を進める人だった。学問を好み、俳諧連歌をこ嗜むなど教養も兼ね備えていた。家業として麦作や養蚕をやる他に、他家から藍葉を買入れ、自家でも作り、それを藍玉に製造して、信州や上州、武州秩父郡あたりの紺屋に販売することも始めた。栄一の実家「中の家」は主に信州が得意先で上州伊勢崎や近隣の本庄などへも販路を広げていったという。質もとり金融も行っていた。
また母えいは、困った人に物をよく施すなど慈悲深い人であった。近くにハンセン病(※)を患っていた女性がおり、村の人々はその女性とのつきあいを避けていたが、えいえは着物や食事、入浴などの世話を続けたという。そうしたえいの影響を受けて後年栄一は屋回復し、医療事業にも取り組むことになる。
中の家
両親の背中をみて育った栄一は、後の功績からみても、かなり影響を受けているということは間違いない。そして栄一は父のようにとても好奇心が旺盛で勉強熱心だった。書物を読み始めたのは7歳。父からは漢文の素読を学び『大学』から『中庸』、『論語』巻二まで習う。その後、隣村手計村の尾高惇忠のもとへ通い、『論語』をはじめ四書五経などを学んだ。11~12歳のころには『通俗三国志』『南総里見八犬伝』などを好んで読み、17~20歳の世の中の矛盾を感じていたころには『日本外史』、『十八史略』を読み、それらの書物に登場する英雄豪傑を自分の友のように思い、天下国家のために何かしたいという志を強くしていった。
そして幼い頃から剣術も学んだ。従兄の渋沢喜作や尾高長七郎らと剣術稽古にも熱心だった。
14~15歳までは読書・剣術・習字などの稽古で毎日を過ごしていたが、この頃かた家業を手伝うようになる。近隣村々を廻り藍葉の買い付けも一人で行うようになった。藍葉を藍玉にすると、取引先の紺屋に値段を決めずに先に送ってしまう。そして紺屋が使用した分だけの代金をもらいに行ったり、後の注文を聞きに行ったりした。春と秋は様子を見に、正月と盆(8月)は集金にと年4度は得意先へ行かねばならなかった。信州・上州・武州秩父の得意先廻りも17歳には栄一が引き受け、家業に対する熱意も沸き、当時特産地だった阿波の藍に負けないものを作りたいと、近隣村々から藍葉を買い集め、作った人々を招待して番付を作成した。そして藍の出来に応じて席順を定め、一番良い藍を作った」人を席に据えて饗応し、競争意識を高め、一層良い藍を作るように奨励なども行った。
番付
世の中の道理に疑問を持った青年期
栄一が17歳の時、岡部藩より血洗島村は御用金を出すように言いつけられ、生家「中の家」は500両を引き受けることになった。このとき、栄一は父の代わりに岡部陣屋に出頭するのだが、代官・若森権六に侮辱されながら、御用金をすぐに出すように強要される。栄一はこのような代官の態度に憤り、その原因を幕府の政治に求め、社会の矛盾を感じ始めた。
また、水戸学に傾倒し尊王攘夷思想を持つようになっていた師匠・尾高惇忠の影響も受け、栄一は幼い頃から交流していた尾高長七郎、渋沢喜作らと天下国家を憂え、論じ合うようになった。血洗島周辺には尊王攘夷の志士で長州藩の多賀屋勇(坂下門外の変で捕縛)、宇都宮藩の広田精一(禁門の変で自刃)なども来訪。詩を作ったり時勢を論じ合い、幕府批判を行うなど交流の中から尊王攘夷思想に深く共鳴していった。栄一は幕府が他の手ないような大騒ぎを起こし、幕政の腐敗を洗濯、国力を回復しようと1863年(文久3年)8月頃、惇忠、喜作と3人で攘夷実行計画を企てる。高崎城を乗っ取り、兵備を整え、横浜外国人居留地を襲撃、焼き討ちして、外国人を片っ端から切り殺すという計画をたてた。同年11月冬至の日、総勢69名ほどで決行することを決めた。
尾高惇忠宅
その日が迫った10月29日夜、下手計村の惇忠宅の2階で、京都情勢探索から帰ってきた長七郎も参加し、惇忠、栄一、喜作、中村三平の5人で評議を行った。この席で長七郎は中止を主張、栄一は決行を主張するなど、計画の実行に大激論がかわされた末、中止とした。幕府に捕縛される危険っもあった為、栄一は喜作とともに11月8日、伊勢参拝を兼ねて京都見物に行くと吹聴し、京都へ旅立った。
血気盛んな若者が日本を変えるという流れは、戦後昭和の時代の学生運動にも近い。
現状を変えるということが、この時はまだ武力行使の時代。今もその流れは一部の国ではあるが、栄一は、その後違った側面から日本をよりよくする道を歩き始める。今の私たちも視点を変えて捉えなおしてみることで新たな道が開けるかもしれない。
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