武州藍と阿波藍
粋でいなせな江戸っ子気質『武州藍』
江戸末期、家業の藍玉販売で商才の原点を築いた渋沢栄一。
武州地域は、その当時徳島阿波藍には足元にも及ばなかった。
武州の藍は阿波藍ほどにはならないにしても、追いついてみせるという目標を設定し、武州藍ならではの販売に精を尽くした渋沢栄一だった。その結果、阿波藍とは違った武州藍の特徴が出来上がっていったのだった。
武州正藍染めの歴史
行田・羽生・加須を中心とする埼玉県北部地域は、江戸時代に綿の一大産地だった。
そして行田から4km程行った利根川流域では、藍が盛んに栽培されていた。
この綿と藍が結びついて始まったのが武州藍染の起こりだと言われている。
*ちなみに、田山花袋の「田舎教師」という小説の一節に「四里の道は遠かった。途中に青縞の市の立つ羽生の町があった。」というくだりがあるのですが、武州藍の市のことだ。
青縞は、江戸時代後期 (天明年間)に騎西周辺の農家の副業として始まった藍染めの綿織物。
糸を染めた後布に織り上げるため、糸の染めむらによって縞柄のように見えることからこう呼ばれている。
江戸時代から明治にかけて、羽生は8の日、行田は6の日、騎西(きさい)は7の日などと決められ、藍染織物の市が立っていた。
この藍染の織物ですが、農家が糸を買って藍染屋(紺屋:こうや)に染めてもらい、これを農閑期や夜なべ仕事で織った訳だ。
そして織り上がると、青縞の市に出す。
これを買う商人がいて(縞買い)、買った青縞で足袋をつくった。
これが、いわゆる行田足袋の発祥だ。
農家が栽培した藍を買い集めるのが「藍問屋」といわれる製造問屋。
この藍問屋は、藍を買い集めるだけでなく、藍を発酵させて藍玉をつくった。
この藍玉をつくるには、高度なノウハウが要ったのだった。
つまり、藍問屋は、買い集めた藍に、発酵技術というものすごい付加価値をつけて、藍染屋に藍玉を売っていたのだった。
藍問屋というのは、貧乏な藍染屋にお金も貸していた。
つまり、金融業も兼ねていたのだった。
海の碧藍で染めた色彩美 伝統の阿波藍
徳島の先史と産業徳島(阿波の国)における藍は、古くから栽培されていたのであろうと推測される。藍の取引を示す記録が文安2年(1445年)の「兵庫北関入船納帳」に阿波藍の輸送の記帳があり、藍の生産がおこなわれ流通していたことがわかる。
蜂須賀家政が、天正13年(1585年)に徳島の阿波藩主となってから、藩の財政を支えるために吉野川流域で従来から栽培されていた藍栽培を奨励した。
徳島の吉野川は下流域に肥沃な土地をもたらし、水の便もよく、藍栽培にとっては適した地域だった。
藍は、藩による生産の保護と奨励とともに、洪水の被害が少なく、稲作りよりも収益の高い作物の藍栽培が発展していった。
また、古来より長い間高級品であった綿は、戦国時代の後期ごろから全国に綿布の使用が普及し、綿花の栽培が始まり江戸時代に入ると木綿問屋も形成され、急速に栽培と生産量が増大した。
綿花の生産の増加にともない綿を染める染料の藍の需要は高まった。
そして、阿波藍の栽培は藩の積極的な政策もあり、江戸時代の中期頃には吉野川の下流域から中流域まで広がり生産量をのばした。阿波の藍は、品質のよい染料として高く評価され、藍玉(すくもを練り固めてこぶし大にしたもの)に加工し、全国に出荷されていた。
徳島県の日本全国的にも抜きんでた藍の製造は圧倒的上位。
渋沢栄一も江戸末期、阿波の藍に憧れて武州藍をより広めていこうと奔走し、1番にはなれなくても2番を目指す!と言っていたそうだ。
藍の生産は、明治時代の後期頃まで生産量が拡大し、明治36年には最高の15,000ヘクタールの生産規模となり、以降下降していきましたが、昭和50年頃から郷土の伝統ある産業として見直されるようになり今も伝統を守り続けている。
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