何故渋沢栄一は、日本資本主義の父と言われるのか
渋沢栄一と合本主義
いつの時代も混沌とした流れの中で、強い信念を貫き偉業を成しとげる人物はいる。
渋沢栄一は、江戸から明治、大正、昭和と4つに時代に生き、時代の波に抗いながら自ら日本のために亡くなるまで走り続けた人物である。
江戸末期、農民出身だった渋沢栄一は、一橋家(徳川慶喜)の家臣となり、従兄弟の尾高淳忠のもとで学んでいた「論語」の教えと自身の信念で家臣としても頭角を現していった。
日本が開国するためにも、世界の国を知り、学ぶ必要があった。
幸運なことに、徳川昭武民部公子に同伴し渡仏。
その間日本では大政奉還から倒幕となり、徳川幕府が終わりを告げることとなる。
新たに明治政府が誕生し、その中で更に海外で感じ学んだことを日本のために活かそうと紛争する。
欧州から戻り、新たな時代の海原で奔走した渋沢栄一は、静岡に「商法会所」を設立、以降会社の設立と運営をした企業500、そして600もの社会事業に携わった。
銀行、鉄道、ホテル、建設、電気、ガス、水道、通信等、学校、病院など、今や私たちの生活には欠かせない現代社会の基礎を築いた「日本資本主義の父」渋沢栄一が提唱した「倫理と利益の両立」の思想は、今日でも多くの経営者が目指すべき形と言える。
日本資本主義の父と言われる所以は、江戸時代、大名に年貢を納め、その身分のまま上にはいけなかった時代を見事に打ち破った。
海外で資本主義、すなわち皆が資本を出し合って事業を行い、その利を配当するということを学び、それをさらに日本流にアレンジした。
新たに業態をつくりあげるには、一企業で行うのではなく、ともに企業同士または人同士がつくりあげ、利をお互いに分かち合うのが合本、つまり日本資本主義ということなのである。
それで関わりのある企業がどんどん増えていったのでないだろうか。
渋沢栄一、創設に関わった主な企業
明治に入り、以降近代日本を作りあげていった礎をまだまだ知る人は多くない。
その功績や関わりを知れば知るほど、日本が発展し、インフラが整い、今の生活の豊かさにつながっているのは間違えない。
それには、資本主義という考えのもと、多くの企業を立ち上げ、今につながる。
我々が知らない企業はないとう程、大手企業が今も続いている。
資本主義の礎をつくる
まずは、お金に関する事業。
先に述べた渡仏の際に学んだ、人々から少額のお金を集め、まとまったお金にし、新しい事業に投資することで、事業の成功があれば配当も得られ、WIN WINとなるという構図を日本で銀行をつくることで取り入れていった。これで経済の基礎ができた。
また合本主義の渋沢栄一がお互いの素晴らしい所を取り入れ、新たな、革新的なものをつくっていくという思想は、青年期から一貫して生涯ぶれずに進んでいったものだった。
現在、上記のような企業で働いている人たちでも、自分の会社がどのような歴史を歩んできたのか、歴史上の人物でどんな人たちが関わってきたのかなど、知らない人も多いと聞く。
時代ともに、企業の在り方や考え方も変化し、毎日が精いっぱいで、過去を顧みることに対して余裕がない人も多いだろうし、語り継がれている企業も少ないのかもしれない。
中には渋沢栄一が関わりをもっていた清水建設などは数年前に社是に渋沢栄一の教えを取り入れたと聞いた。
自分たちの企業に誇りをもって、新たな革新的なことがなせるよう、今一度、この時代だからこそ見直してみる必要があるかもしれない。
現在の企業群と当時渋沢栄一がどのような事を成し、新たな時代を作り上げていったのか。
渋沢栄一の信念が、幕臣から新しい明治政府の役人へ、そして民間人になって民間企業を作り上げていく。
静岡に「商法会所」を設立したのも民間企業が発展するための一つの起点だった。
今や「商工会議所」として各地にあるが、たくさんの企業が会員となっている。
日本資本主義の父は、階級関係なく、自分の力で起業できる平等な権利を与え、日本経済の発展へと大きく貢献した人物のひとりであった。
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