藍のはじまりと繁栄、その理由
江戸時代の粋なファッションとして流行した藍染。
渋沢栄一も、武州で藍玉の販売を行い商才を発揮していったのですが、そんな藍ブームは全国的なものでした。
三草と呼ばれる麻、紅花、そして藍。
日本には奈良時代までに中国から輸入されていました。
その時までは葉や茎から染料をとっていたといいます。
そして江戸時代には、日本で藍の栽培が本格化しました。
藍が盛んになっていったのは、木綿と関連していたといいます。
江戸時代の初め、衣料として利用されはじめた木綿は、保温性や肌触りなどから人気となり、木綿生産は急速に拡大していきました。
この木綿の染料として、藍が用いられたのでした。
こうして木綿と藍は発展していったのでした。
阿波藍と武州藍
阿波での藍の栽培は、室町時代から行われていました。
阿波の気候と土壌が藍作に適していたこと、そして徳島藩蜂須賀家の保護によって藍作は次第に拡大していきました。
藍作に必要な肥料や藍玉を運ぶのに吉野川が使われていたことから、藍は吉野川の恵みを受けて成長していったと思われます。
武州の方面では、江戸時代末期より盛んになりました。
利根川流域の武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)でも藍栽培から藍玉の製造販売が行われていた。渋沢栄一は、その血洗島で藍玉を製造していた。
やはりここでも利根川の恵みや肥沃な土壌があったからこそだったのでしょう。
このように全国各地の河川流域で藍作が行われていきましたが、阿波の藍が江戸時代の初めから抜きんでていたわけでもなく、生産者の弛まない努力によって品質を向上させ、今となっては藍=徳島阿波というイメージが出来あがっていったのかもしれません。
阿波では、板野郡下庄村(板野町)の犬伏久助は、蒅の出来を左右する水加減を苦心し努力を重ね、独自の製法を編み出していきました。
久助は晩年まで自ら開発した技術を惜しくことなく指導し、これを普及させていったといいます。
その結果、藍の品質は安定し、ブランド化していきました。
熱意を善意に満ちた久助に代表される藍作りに関わった人々の力が結集し、江戸時代後期、阿波藍は爆発的な人気となっていきました。
その情報を聞き、武州で渋沢栄一は、阿波の藍に追いつけるように頑張ろうと思ったようでした。
まずは質の良い藍玉製造からが必須だったのでしょう。
藍大市の販売
徳島では藍を大坂に出荷、武州では江戸に出荷していたようですが、その価格は同地域の問屋たちが左右していました。
それから40年後には、諸国の問屋・仲買人が船場に集まり、大市が盛大に開かれるようになっていきました。
阿波では新藍品評会を実施し、優秀な藍には、瑞一・準一・天上と、その栄誉を称える賞碑板をは発行しました。
藍商は販売するだけではなく、藍の品質保持に努め、ブランドを維持することに誠実に取り組んでいきました。
武州でも、こうした阿波での行いを参考に、品質向上に努力をしていきました。
横綱番付は、阿波の賞碑板をまねて展開していたのかもしれません。
優れた者には真似よ、ということが技術発展にもつながるのかもしれません。
日本のおもてなしの精神や製造、技術、品質に対するこだわりは、こういった人たちの努力の積み重ねが今の日本の技術力を支えてきたのでしょう。
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