渋沢栄一と偉人たち【福沢諭吉】2
渋沢栄一と偉人たち【福沢諭吉】2
1万円札の顔、福沢諭吉。2024年に渋沢栄一との交代するわけだが、諭吉もまた偉大な人物である。その大志はいかに?!
英語を勉強しようと決めた諭吉。
咸臨丸船上での出会い
安政6年(1859年)。
江戸幕府は、日米修好通商条約締結に伴う使節団をアメリカに派遣することにした。
使節はポーハタン号と咸臨丸で出発し、そのうちの咸臨丸に福沢も乗船。
出入りしていた桂川家と軍艦奉行並の木村喜剛が姻戚関係にあり(桂川甫周の妻の姉が、木村の妻)
福沢が、桂川家経由で熱心に頼み木村の従僕という名目で参加した。
そこには勝海舟もいた。勝は木村とは反対で、低い身分の旗本から見いだされた叩き上げの男。若手エリートvs叩き上げという、ありがちな対立構造だ。
勝は木村とは反対で、低い身分の旗本から見いだされた叩き上げの男です。
若手エリートvs叩き上げという、ありがちな対立構造がそこにはあったと思われる。
アメリカ合衆国での衝撃
アメリカに上陸した福沢は、念願の英語学習の機会を得た。
科学技術に関しては凄いと思うも、事前に知識として知っていたので「なるほどな」と納得できたレベルだった。しかし、思想や政治制度には心の底から衝撃を受けたという。
その当時日本では、徳川家康の子孫が政権を担っている一方で、アメリカでは民意による選挙で決定していたからだ。
そしてアメリカで『華英通語』(中国語―英語辞典)を手に入れ、実際、この辞書を翻訳した『増訂華英通語』を福沢諭吉がのちに出版すると、処女出版にしてベストセラーを飛ばすことになったのだった。
幕臣として海外へ
福沢の高い見識をみて、木村は彼を幕府に推挙し、福沢諭吉はついに翻訳者として出仕することとなった。はじめは中津藩士だったが、4年語には幕府直参に取り立てられ、めざましい出世をした。
文久元年(1861年)には、中津藩上士・土岐太郎八に気に入られ、彼の次女・お錦と結婚。福沢家よりはるかに格上で、家の格式を考えれば異例の組み合わせだったという。多くの子女をもうけるが諭吉は極めて子煩悩だった。子煩悩ぶりは弟子達にも向けられていたという。
文久2年(1862年)、抜群の語学力を買われた福沢諭吉は、幕府の使節団として29歳で欧州にも向かうことになった。
この道中では、人種差別、帝国主義、植民地主義といった、列強の負の側面も痛感することになる。この点では渋沢栄一と同じだ。
帰国後、福沢は見聞をまとめた『西洋事情』、『唐人往来』などの本を書いて西洋社会を紹介する。
ちなみに日本ではこの頃、英国公使館焼き討ち事件が起きたり、攘夷を叫ぶテロが横行し始める。この頃渋沢栄一も武州で尊王攘夷を貫こうとしていたときだ。
幕臣が見聞を深めているころ、何も知らない倒幕派はまだそんな段階にいたのだった。
諭吉は尊王攘夷の倒幕はもちろん嫌いだった。短絡的なテロ行為を横行しているように思っており、自身も幕府があったため常に警戒を強いられていたという。
幕府への失望
慶応3年日(1867年)、福沢は使節として二度目の渡米を果たす。
福沢は原書の購入を命じられたのですが、そうして手に入れた原書を日本で売り払い、利益を得ようとしていることを察知し、使節主席・小野友五郎と揉め、これをキッカケに、福沢は幕府に失望していった。
帰国後、福沢は謹慎処分にされ、その頃西軍が江戸に迫り、勝海舟が奔走しているとき、福沢諭吉は病気を理由に江戸登城を辞め、政局から身を退いた。そして、教育者として英語や経済学の授業を続けた。徳川家が江戸城を出て駿府に移ると、福沢は幕府直参としての縁を一切切り、あっさり平民となったのだった。
時代を読む先見の目は冷静に第三者の立場となってよく見えていたのかもしれない。
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