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渋沢栄一と偉人たち【福沢諭吉】1

渋沢栄一と偉人たち、【福沢諭吉】

2024年新紙幣の顔となり、2021年大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもある渋沢栄一。

一般的には500以上の企業設立に携わってきた近代史のスーパービジネスマンといった所だが、現在の一万円札といえば「福沢諭吉」。

この写真は幕臣時の福沢諭吉である。

この二人の共通点を挙げてみると「元幕臣」「留学経験者」という事だ。

またこのような肩書だけではなく、幕末に国のために奔走し、明治新政府成立後は世の中の物事を、刹那的であっけないものだと思いながら、生きていたところもお互い似た所があるようだ。

福沢諭吉といえば、慶応義塾を設立した人。学問のススメを説いた人というイメージがある。だけど、お札になるにはもっと偉人のイメージが強くなければ、、、と思いつつ、何故お札になるほどに至ったのか、その生涯を追ってみることにしよう。

 

 

 

 

 

福沢諭吉

天保5年(1835年)、大坂は中津藩の蔵屋敷。

福沢は、中津藩士・福沢百助と妻・順の二男として生まれた。

後にアメリカ留学し、西洋の知識を積極的に吸収する福沢には、実は生まれからそういう環境にあった。主君にあたる当時の中津藩主・奥平昌猷(おくだいら まさみち)は、薩摩藩の蘭癖大名・島津重豪の孫にあたる人物だったのだ。

 

昌猷の父・昌高も蘭癖大名として有名であり、さらに遡った中津3代藩主・奥平昌鹿(1744-1780)は『解体新書』の翻訳者・前野良沢を高く評価した人物でもある。

そんな環境にあった中津藩で、父・百助は出世できず、福沢がまだ2才のころ下級藩士のまま世を去った。

「藩閥政治は親の敵」

後に福沢はこう書き残し、父の無念を振り返っている。

 

諭吉、蘭学を学ぶ

九州・中津藩は、日本の玄関口の長崎からも近い場所であり、藩全体に蘭学を学びやすい空気があった。福沢諭吉もまた剣術や儒学も学んだという。

しかし、彼の人生を決めたのは、やはり蘭学。

早くから親しんでいた福沢は、黒船来航の翌年・嘉永7年(1854年)に長崎へ遊学することとなる。渋沢栄一がまだ血洗島にいるときだ。この頃、各地で蘭学熱が高まり、当時の人気のアルバイトが蘭和訳辞書「ドゥーフ・ハルマ』の筆写だった。諭吉は、科学や理科の実験に夢中になっていった。ちょうど中津藩では江戸で蘭学塾を開くことになった。諭吉もそれに参加した。黒船来航してからというもの、老中の阿部正弘が蘭学のできる人材登用を重視していたこともあり、時流に乗ったともいえるであろう。

蘭学熱高まる江戸で、福沢はその中心地といえる蘭方医・7代目桂川甫周の家に出入りすることになった。その中で諭吉は、蘭学では事足りないことを悟る。横浜の外国人居留地で見かけた文字が、まるで理解できなかったのだ。オランダ語ではなく、これからはイギリス、アメリカ、フランス、ロシアの大国から学ばねばならないと。

ここからが福沢諭吉の大志が始まる-。

 

渋沢栄一と偉人たち【福沢諭吉】2

渋沢栄一とお人たち【福沢諭吉】3

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