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渋沢栄一とゆかりの地

日本資本主義の父、渋沢栄一。日の本を一等国へ!

 

新一万円札の顔となる渋沢栄一。

戦国武将のようにドラマにとりあげられることも少なく、その存在をあまり詳しくは知らない人も多かったことだろう。

NHK大河ドラマ「青天を衝け」で国宝級イケメンと呼ばれる吉沢亮を起用し、徐々に若者にもその功績を広く知らしめつつある。

実はとてつもない偉業を果たしており、日本全体をよくするという野望を実際に実現したといっても過言ではない。

また日本の至る所に関わりのもった地域があった。

そして今私たちの生活は便利で豊かになっている。

 

渋沢栄一の幼少時代

渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島村の農家に生まれ、

畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学んだ。

 

栄一も家業を手伝う中で、経済・経営のノウハウを身に付けていった。

実践から吸収した経済観が、後の人生に於いて大いに役立つことになっていったのだろう。

 

従兄弟の尾高長七郎が剣術を活かすべく江戸へ上京したのを機に、栄一自身も江戸へ出て日本をよくしたいという想いに駆られる。

そして見事、水戸藩主の徳川慶喜の家臣としてその才能を如何なく発揮していくのだった。

 

栄一、海外で見聞を広める

栄一は27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができた。

目に映るもの全てが新鮮だったと言われている。

 

明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わった。

今や当たり前のように生活の中にある銀行、鉄道、ホテル、建設、電気、ガス、水道、通信等、学校、病院などは渋沢栄一の偉業の一部である。

 

渋沢栄一ゆかりの地域

渋沢栄一は、地域の開発にも奔走する。

全ては日の本を一等国にするという信念を貫くための行動だったのだろう。

全国各地に銅像も建てられているほど、今でも地域毎に渋沢栄一の教えは大切にされている。

その中でも町をあげて活動している地域をいくつかをご紹介。

 

埼玉県

深谷 

埼玉県深谷市出身の渋沢栄一。地元では言わずもがな、英雄だ。

家業の養蚕、藍の製造販売などから栄一の礎ができた。

今も深谷は農業王国としてたくさんの新鮮野菜が豊富。

秩父

秩父鉄道(元上武鉄道)の開業を支えた。秩父地方は養蚕や絹織物の産地として有名な地域だったが、山地ということもあって効率的に運搬する手段がなかったこともあり、鉄道ができた。

その他、太平洋セメント(元秩父セメント)などの企業設立などの援助もした。

 

東京都

江戸(東京)で数えきれないほどの偉業を成したので、歩いてみるとたくさんの銅像や石碑がある。

代表的なところは…

北区

渋沢栄一が永眠するまでの30年を飛鳥山を棲み処としていた。

「青天を衝け」の後半の舞台にもなった。今は飛鳥山は公園となり、憩いの場としても日々人がにぎわう。

そこには当時の建築物などや渋沢史料館もあり、渋沢栄一の偉業を知るには飛鳥山に出かけてゆっくり調べてみるのも良い。

板橋区

板橋区には有形文化財として東京都健康長寿医療センターに渋沢栄一の銅像がある。

戦争などで親を亡くしてしまった孤児のために養育院を運営していたところが病院となっている。

またものづくりの町として光学技術や印刷業が集積するなど、都内有数のものづくりの拠点として発展してきた。

渋沢栄一の掲げる日本の近代化に大きく貢献し、現在も産業のまちとして高く評価されている。

江東区

明治9(1876)年、36歳の栄一は住まいを深川福住町に移す。

表座敷は木造2階建の日本建築で清水店(現・清水建設株式会社)の二代清水喜助が同11(1878年)に設計施工した。

渋沢栄一は明治22年から深川区会議員や議長を勤め深川の発展にも尽力。

30年には邸宅内に澁澤倉庫の前進となる澁澤倉庫部を発足させた。

澁澤倉庫は渋沢栄一と千代の嫡男渋沢篤二氏が管理をしていた。

 

北海道十勝清水町

まだ未開の地だった清水町熊牛地区などの開墾に渋沢栄一は乗り出した。

開墾を目的に設立した十勝開墾合資会社が、1919(大正8)年に建てた厩舎が現役の牛舎として今も活躍している。

町の文化史跡にもなっており、当時の建築を知る上でも貴重なものとなっている。

農場では大豆、小豆などを生産し、牧畜や水田にも取り組んだ。

そして今も豊富な乳製品、牛製品、豆類などが豊富で、日々私たちの食卓を豊かにしてくれている。

 

岡山県井原市

渋沢栄一は、一橋家の家臣となり、慶応元年(1865年)春、農兵を集めるため、領地であった備中国西江原村(現岡山県井原市)を訪れた。
滞在中には、興譲館の館長であった阪谷朗廬と語り合い、親交を深め、農兵の募集では大成功をおさめ、15代将軍の慶喜に認められる。
まさに、井原は栄一にとって世に出るきっかけとなった地だった。

渋沢栄一が朗廬と面会したとされる興譲館講堂は、現在でも当時のまま残っている。

 

 

長野県佐久市

 

栄一は青年時代、家業である藍玉販売のため信州に訪れており、信州佐久では信頼する木内芳軒のもとで「漢詩」を学んでいた。

その後、栄一は「信州の佐久小県は第二の故郷だ」と語っていたようだ。

栄一はNHK大河ドラマ「青天を衝け」のタイトルの着想源となった漢詩「内山峡」を詠んでおり、国道254号線沿いの佐久市内山地区には地元有志により建立された詩碑が残されている。

 

まだまだゆかりの地はたくさんある。

江戸、明治、大正、昭和の時代を駆け抜けた栄一の行動力がゆかりの地各所で確認することができる。

 

 

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