日本の郵便制度のはじまり『渋沢栄一と前島密』
近代日本郵便の父・前島密が築いた誰もが平等に使える制度
時は明治、明治維新後の新政府ができた時期には世界各地に新しい波が押し寄せていくなかで多くの人々が「このままでは、日本はやっていけない」と考えた。
新しい国を築く必要があり、様々な主張の違いによって幕末の動乱が起きていったのだった。
そんな中、渋沢栄一とともに社会インフラの整備に大活躍をしたのが、「近代日本郵便の父」としても知られる前島密だ。現在は1円切手の肖像となっている。
渋沢栄一と前島密の関わり
ここで渋沢栄一と前島密の関係を明記しておこう。
渋沢栄一が徳川昭武の随行でフランスから戻ったあと、徳川慶喜は当時駿府(静岡)で暮らしていたこともあり、駿府でパリで学んだ知識を生かして武士と商人が力を合わせて商いを営む「商法会所」を設立。そのなかに、一緒にフランスに随行した杉浦譲や前島密もいた。ともに商法会所を運営していくのだった。
その後、渋沢栄一は明治政府に出仕することとなり、各省の垣根を超えた特命チーム「改正掛」を立ち上げ、商法会所のメンバーの中の杉浦譲と前島密を静岡から江戸に呼び寄せるのだった。改正掛は今で言えばシンクタンクのような存在で、租税の改正、貨幣や郵便制度の確立などを行っていき、新たな国づくりを目指していった。
渋沢栄一は分け隔てなく、良い案をもった人を意見を採用していくのだった。
前島密は、政府が飛脚問屋に支払う通信用の金額より、はるかに安く開設できる飛脚便制度を提案し、渋沢栄一が政府に建議書を提出した。
「月一千五百両を費やせば、東京から京都さらに大阪までの区間に毎日一定の時刻、各一便の政府の飛脚便を仕立てることができる。また同時に、一般の通信も取り扱うことにすれば、送達料を取ることができるゆえ、その一千五百両はそのままほかの線路を拡張する基金に回すことができる。」
というのが前島の案であった。
前島は、日本が今後も成立していくには近代化が必要で、なおかつ開国して西洋と同等に付き合わなければならないと考えていた。近代化に当たり、最初に整備が必要なのは通信と交通のインフラだと考えた。近代化に向けては、まずは連絡ができなければならず、それに至る物流の道もつくらなければならないということだった。
郵便事業の創設までの歩みには「自分がやらねば誰がやる」という前島の信念が如実にあらわれている。通信と交通のインフラ整備を率いた前島は、「自由、平等、公平」の実現を目指していた。現場中心の視点から、身分や肩書に関係なく、誰もが平等に使える制度として築かれた郵便システムは全国津々浦々に行き渡り、 災害時や過疎地域でも住民を支える強固なシステムとして今もなお生き続けている。
急務だった「駅逓制度」の改革・西洋の理念を取り入れ江戸の制度も活かす
駅逓(えきてい)制度とは、郵便制度の母体となった制度のことである。
当時は「駅逓司」という役所において、日本の郵便制度びようなものが存在していた。駅逓司は江戸時代の「道中奉行所」に当たるもので、明治初期には行政の様々な制度に江戸時代のシステムが流用されていたのだった。
道中奉行所は江戸時代、交通や宿駅を管理する役所。江戸時代にはまた「継飛脚」という幕府公用の通信制度があり、これを管理していたのも道中奉行所だった。幕府御用の継飛脚や大名飛脚のほか、江戸や大阪をはじめ大都市の間には町飛脚も発達していた。
飛脚問屋の営業は、明治になっても続けられており、政府の公用文書もこれらの飛脚問屋によって送達されていた。当時の新政府は毎月1500円の代金を払って彼らに業務委託していたというが、当時の国家予算は2000万円ほどであり、この負担は馬鹿にならない。
政府が自ら事業としてうまく運営できれば、公文書のみならず国民にも広く利用してもらえ、同時に財政支出を削減できるかもしれない。しかし彼らにそんなノウハウなどない。欧米の視察経験がある渋沢栄一(租税正・改正掛長)でさえ、駅逓制度改革に着手するのには躊躇があった。
この時、頭を抱える面々に代わって手を挙げたのが前島密である。彼の勇気ある決断に対し、渋沢は敬意を込めて次のように回想している。
〈私共が幾ら考へて見たけれども、宜(よ)い思案もない。ところが前島さんが専ら任じて、宜しい己(おれ)が一つやつて見ようと云ふ……〉(『追懐録』)
江戸時代を通じて飛脚の社会的地位がきわめて低かったことも、官営にすることのハードルだった。うまく話を持って行かないと太政官会議で否決されてしまう。そこはうまく根回しをして、事業官営化の方針が決まった。
明治3年5月10日、前島は租税権正のまま、新事業担当の駅逓権頭の兼任を命じられる。
官営するにあたっては、従来の飛脚制度をそのまま踏襲するのではなく、一気に欧米と同様の近代的制度を導入しようとした。
江戸時代の通信や交通のシステムは、西洋のものとは大きく異なっていた。例えば、江戸時代の継飛脚は公用の文書しか運んでおらず、それとは別に民間が営業する「定飛脚」があった。
まずは新事業の名称を決めねばならない。「飛脚便」と呼ぶ案も出たが、これでは従来の飛脚と区別がつかない。そこで考えられたのが「郵便」であった。
前島の造語というわけではない。江戸時代の漢学者の中にはすでに飛脚のことを「郵便」と呼ぶ者もおり、それを採用したのだった。「郵」とは元来、宿場を意味する漢字であった。
異なるシステムを西洋と同等に変えていくには、西洋のシステムをそのまま取り入れる方法があるが、前島は従来のシステムも活かす方法をとる。その際、理念やシステムの運用では西洋的なものを取り入れた。
江戸時代の制度を活かせば、あまり時間をかけずに通信や交通のインフラを整備できる。例えば、物流では江戸時代の宿駅を会社にし、陸運会社を創った。他方で江戸時代には公用の継飛脚は無賃だったが、前島は西洋の考え方を取り入れ、公用か民間かに関わらず、また身分や肩書とも関係なく、皆が平等に有料で利用するシステムとした。
どのようにして有料で利用できるシステムにしようか。
海外経験のある人を探して尋ね歩きもしたが、郵便制度に関心を払って研究した者などいない。ただ渋沢栄一が1枚のフランス切手を持ち帰っていて、これを書状の表に貼り付けて郵送する仕組みになっていたことを教えてくれた。
切手で料金を前納することはわかったが、再使用をどうやって防ぐかがわからない。消印することには考えが及ばなかった彼らは、濡らすと破れる薄弱の紙を用いて再使用できないようにしたらどうかなどと真剣に議論していた。すべてが手探りだった。
英国視察での衝撃を活用
明治3(1870)年6月、なんとか新式郵便制度の立案を成し遂げた前島だったが、施行直前になって、英国に渡るチャンスが訪れた。
鉄道建設のために起債した外積に関するトラブル解決と太政官札偽造問題解決のヒントを得るために政府が使節団を派遣することになったのだ。
そもそも英国は1840年(日本の天保11年)、世界に先駆けて近代郵便制度を始めた国。世界最初の切手(ペニー・ブラック)も英国で発行され、前島たちが訪れた時にはすでに郵便制度施行後30年の歳月が経っていた。
市街では郵便列車が走り、郵便汽船が運航している。普及の仕方や自供規模など、すべてが想像を絶していた。政府内でも郵便行政は1部局ではなく、それのみの役所が設けられ、長官は大臣に列している。
前島が注目したのは、距離の遠近にかかわらず全国一律の料金で配達されていることだった。
採算を度外視して過疎地にも一律料金で届け、かつ料金前納の切手に信用力を持たせようとしたら、やはり郵便事業は国家運営以外に考えられない。官営にこだわった自分の直感の正しさを再認識した。
また前島は養老保険や養老年金についても興味を持ち、研究を行っている。当時、英国ではすでに為替と貯金に加え、保険業務も取り扱っていたのだ。まさに現在の日本の郵便局の原型だ。
明治4(1871)年8月15日、1年2か月ぶりに帰国すると、その足で前島は築地の大隈邸に赴いた。
彼が外遊してた間の明治4年3月1日、前島が青写真を描いたわが国の郵便制度は〝東京―京都―大阪〟を結ぶ形で発足。駅逓司は大蔵省に移管され、初代駅逓頭(郵便行政の長)には浜口梧陵が就任していた。安政南海地震の折の津波から村人を救った〝稲むらの火〟のエピソードで知られるヤマサ醤油創業家当主である。人格識見ともに優れた人物だが、郵便制度に詳しいわけではなかった。
前島は大隈に対し、浜口に代わって自分を駅逓頭にしてほしいと願いでて、大蔵卿だった大久保利通に理解を得、帰国して2日後、駅逓頭に就任し、物流と郵便の制度がスタートした。
それから1年後の明治5(1872)年7月1日には、全国に1000か所を越える郵便取扱所を開設し、北海道の北半分や南西諸島を除く全国に郵便網を築き上げ、今日の特定郵便局の多くは、それを前身としている。
また、対外的にも西洋と同等の通信システムができたことをアピールし、1873(明治6)年には米国と「日米郵便交換条約」を締結した。このようにして海外との通信や商取引が可能になり、日本の近代化の基礎となるインフラが築かれた。
書状集め箱 明治4年(郵便博物館蔵)
武蔵国郵便路線図 明治5年(郵便博物館蔵)
前島はまた、江戸時代には頭を下げて役所まで行かなければできなかった様々な申請を、郵便でも行えるよう改革した。さらに、当時はまだメディアが発達していなかったが、前島は新聞や雑誌の原稿を無料で郵送できるようにするなど、メディアの振興にも取り組んでいった。
前島は近代国家の理想を大きな声で語るのではなく、現場の視点でものを考え、できるだけ多くの人々が新しい制度を自由に使えるようにするため努力をしていった。
郵政博物館の沿革と、日本の郵便事業の始まり
郵便や通信に関する様々な収蔵品を展示、紹介している郵政博物館(東京都墨田区)の起源は、1902年に遡る。
1902年は日本の「万国郵便連合(UPU)」への加盟から25周年を迎え、その記念行事の一環として「郵便博物館」が当時の逓信省内に創設された。
その後は「逓信博物館」、「逓信総合博物館」への改称や度重なる移転を経て、2014(平成26)年3月に公益財団法人「通信文化協会」が運営する現在の郵政博物館が開館。その分館として、新潟県上越市の前島記念館、岡山市の坂野記念館、沖縄郵政資料センターもある。
竜文切手4種(郵政博物館蔵)
過去の歴史を伝える書状
現代はインターネットやスマートフォンによる通信が普及しているが、書状が持つ重要な役割は今も続いている。
書状のように紙に書かれたものの重要性は今後も残ると思われるし過去の歴史を知る際にも、書状は非常に有効で書状1つで歴史がわかることもある。
例えば、戦時中に兵士の家族や友人が兵士に宛てて、日本から出した手紙が最近になって発見されている。それらの手紙には、当時の村の状況や人々の生活について詳しく書かれており、一般的に思われていた戦時中の状況とは、かなり異なるものであったことがわかる。
また、日本の人々は意外に、戦時中も自分の本音を手紙に書いていたのだとわかる。そして若い兵士と親しい女性のやり取りなどを見ると、今の若い人たちとあまり変わらないという印象も受ける。若い兵士たちには夢があり、「戦争が終われば」と希望を持っていたが多くの方が亡くなっていった。
地域住民の生活を支える日本の郵便制度
全国各地に存在する郵便局は、郵便だけでなく、様々な面で人々の生活を支えている。
郵便局はかつて日本中で最も多い役所で、郵便だけでなく電報や電話の交換、貯金や保険にも関わってきた。特に、戦前までの時期に日本が通信で世界に遅れることなく、全国に電話があり電報が届いていていたのは、郵便局が各地域に根付いていたからだ。
当時は全国各地で先進的な考えを持つ方々が、郵便局長として使命感を持って事業に取り組んでいました。日本の国は元々、村や農業を中心としており、その時々の為政者とは別に古代から続く村社会が存在した。その村長を中心とするネットワークが、ある意味で郵便制度に取り込まれていったのだった。
郵便制度がつくられた際には、江戸時代から地域行政に携わっていた村の有力者の方々が、各地で郵便局長に就任した。その際、郵便局に必要となる土地や建物が無償提供されていた。地方の郵便局長さんには、現在も地域振興に熱心に取り組む方が多いようだ。
少子高齢化や人口減少が進む中、地方では現在、地域住民の生活に必要な様々な施設の撤退が生じている。そんな中でも、「最後まで残っているのは郵便局だ」という話を聞く。公共の交通手段が少ない地域に住み、車も運転できない高齢者でも、郵便局が近くにあればお金を下ろし、年金を受け取ることができる。そして郵便を受け取り、近くのポストに投函することもできるのだ。
東日本大震災の際にも、郵便局の職員達が避難所に移った方々の居場所を何とか探し出し、郵便を配達しようとしたという。
郵便制度は今では当たり前になり、その有難さを感じることは少なくなった。しかし、様々なインフラが破壊されるような事態が生じた時、最終的に力を発揮できるのは郵便局なのかもしれない。
日本の郵便制度は世界的に見てもしっかりしている。
前島密の考え方は現場中心で、現場で実践や利用をする人の視点に立つものだった。
そのような視点で設計された強固なシステムが、今日まで続いている。郵便制度は今後も変化していくだろうが、全国津々浦々に行き渡り、最後の砦となるような制度は未来も残っていてほしいと願う。
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