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農業王国「北海道十勝清水町」をつくった渋沢栄一、十勝開墾合資会社の設立

渋沢栄一ゆかりの地【北海道十勝清水町】

北海道十勝清水町の歴史は、安政5年(1858年)、松浦武四郎が蝦夷地山川地理取調べの途次、ニトマフ(現清水町人舞)に泊まり清水アイヌと交歓することから始まる。

明治31年(1898年)に2024年新一万円札の顔となる近代日本経済の父、渋沢栄一によって本地を開墾すべく、十勝開墾合資会社を創設し、この会社によって開拓されていった。

「清水」はアイヌ語で「明るく清らかな川」を意味する「ペケレベツ」を意訳したもの。
明治32年に開設した「ペケレベツ駅逓」の取扱人である村山和十郎が、人舞村、屈足村を直轄していた。しかし、駅名と一致せず行政・経済面で不便なため、昭和2年9月25日に清水村と改め、昭和11年1月1日より町制が施行され「清水町」となった。

 

十勝清水町の基幹産業は農業。生乳生産量は十勝一。今やホクレン清水製糖工場、プリマハム北海道工場、日本甜菜糖株式会社清水工場などの大手企業の工場がある。

また十勝の玄関口の清水町。十勝空港までは約1時間のところに位置している。面積は402.25k㎡、人口9,478人、牛は55,958頭という豊かな酪農国。

 

十勝開墾合資会社設立

渋沢栄一ほか10名は、1898(明治31)年に「十勝開墾合資会社」を設立し、現在の清水町熊牛(くまうし)地区に農場を開設しました。その時代の資本金は100万円、総面積1万2100haの道内では最大規模の農場だった。

 

そのきっかけとなったのは、国の方針として上がった「蝦夷地開拓」であり、北海道庁から命を受けたものとされ、約1年間の現地調査を経て、入植を決断したと言われている。

同年、石川県や福井県出身者ら26戸99人が、太平洋に面した大津(現・豊頃町)から上陸し、十勝川を遡って、熊牛の地にたどり着いたという。初代農場長に町村金五・元知事の実父で近代酪農を伝えた町村金弥氏が就任した。

 

未開の地の開拓は困難を極め、厳しい農場経営について、渋沢栄一との往復書簡が残されている。十勝内陸部の交通の不便さ、小作人の離散が主な要因だった。会社側は度重なる小作規定の改定に取り組んだ。墾成地の一部を自作地とする「開き分け」を認める代わりに、自費負担を増やすなど募集契約の見直しを幾度も行い、小作人の確保に取り組んだ。

 

 

会社は存続の危機に立たされたが、農場の実質的創業者である渋沢栄一の十勝開拓にかけた意志は固く、資本金の減額と貸付地の一部を返還して事業の縮小を図るなどの再建計画を重ねた。

会社の設立当初は、資材の運搬のための物流の不便さや北海道の冬の寒さなどで運営はままならなかったようだが、1907年の鉄道開通によってようやく道が開かれた。

これが転機となり、初の収益を挙げ、3代目農場長吉田嘉市氏の題で本格的な農場改革を行い、初めて出資配当、合資会社から株式会社への移行が行われた。

最盛期には工作地8000㌶、小作農家550戸の農場に発展し、1924年(大正13)年4月、明治製糖への経営権の譲渡を経て1934(昭和9)年の解散まで36年間続いた。

 

現在も残る1919(大正8)年建築の2階建ての木造牛舎は、十勝開墾合資会社(後の十勝開墾株式会社)が札幌農学校(現在の北海道大学)に設計を依頼し、本州から駆けつけた宮大工など腕のいい職人が数名で手掛けたとされ、二階からワラくずなどが階下に落ちないよう、雇い実接ぎ(やといざねはぎ)という仕組みが施され、総工費1万円(現在の4千万円ほど)を掛け、約二年がかりで建設された。

土台となる木材には当時、十勝に群生していたカシワを、約10メートルの1本梁にはタモの木を使用している。牛舎は、現在もそのままの形を残し、今も尚、渋谷農場の畜舎として使用されている。

現在は一部改築し、渋谷ファームの牛舎として使われている。

 

渋沢と十勝平野

会社が軌道に乗るまでの約10年間、渋沢がその苦境の中においても開墾を諦めなかったのは、彼の海外に向けた視点や情報が深く影響しているという。

渋沢は著書のなかで「従来接した景色のうちで、私が最も其の雄大なるに打たれたのは、北海道の石狩と十勝の境界にある狩勝峠から見下ろした十勝平野の風景である。実に雄大なもので、コセコセしたところが無く、一寸見た丈(だ)けでは米国あたりの大陸にある風景の如く思はれ日本の景色だとは思へぬほどだ」と綴っている。

渋沢は、十勝平野の景色に魅入られ、いつか実践したいと考えていた「アメリカ式大規模農法」を、ここで試してみたい、との思いに駆られ、新しいチャレンジをこの大地から感じ取ったのではないだろうか。

さらに渋沢は、視察で海外を訪問した際に飲んだコーヒーがお気に入りで、そこに添えられた白い砂糖に感動し、どうにか日本で生産することができないかと思案していたという。南洋の糖業事情を調査した渋沢は、内外産砂糖を精製販売する精糖業起業を図り、まず大阪の松本重太郎らと共に1895年に日本精糖を設立したのだった。

その後、熊牛の地に於いてもそれを実践すべく、札幌農学校に協力を依頼し、現在も広く十勝で栽培されている甜菜(ビートまたは砂糖大根ともいう)の作つけを十勝開墾合資会社に指示。地域にもその生産を広く根付かせる原動力となっていった。

寒さにも強い甜菜の栽培は、十勝全域へと広がり、ついに砂糖の製造会社である明治製糖の立ち上げへと進み、現在も清水町やその近隣の芽室町などで工場を稼働する日本甜菜製糖株式会社へと受け継がれていったのだった。

 

渋沢栄一が今に繋ぐ事業。

乳製品や牛肉その他野菜など、豊富な食を堪能できている私たち。これらは皆先人たちの努力の賜物に他ならない。

渋沢栄一は著書「論語と算盤」で、経済と道徳の一致は、現代では持続可能性にあたる。十勝清水の民間開墾に渋沢栄一が関与したように、持続可能社会を築き未来を信じるチャレンジ精神を持つことが大切とのメッセージを感じる。渋沢栄一は日本の糖業発展を図り、日本精糖、明治製糖(現大日本明治製糖)を設立してから今に続き、十勝の酪農や畑作は今も発展し続けている。

北海道十勝清水町

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