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渋沢栄一とゆかりの地【東京都江東区】

渋沢栄一と江東区のつながり

2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公や、2024年に新一万円札の肖像画に起用されるなど大きな話題を呼んでいる渋沢栄一は、江東区と深い関わりのあった人物でもありました。1873(明治6)年、33歳で大蔵省を辞した後、1876(明治9)年から12年間、深川福住町(現・江東区永代2-37)に居を構えていた栄一。民間人として様々な企業を設立していくなか、地域との関わりを大切にし、旧深川区の区会議員・議長や深川区教育会会長を務めました。区内には栄一の足跡を感じられるスポットが多く残っています。

渋沢栄一肖像(渋沢史料館所蔵)

 

教育事業にも熱心だった栄一は、深川区教育会会長を務めていたころ、「教育は教場の中において成長するものでなく、家庭というものが教育について大なる責任を持つ」という持論を述べています。

 

東京都江東区

渋沢栄一は36歳から48歳(1876〜1888年)まで、永代通りと大島川西支川が交差するかつての深川福住町(現・江東区永代2-37)に本邸を構えていました。

明治21(1888)年に日本橋に本邸を移しましたが、約12年もの間、深川の地を拠点に活躍を続け、「日本資本主義の父」といわれるほど日本近代史に大きな足跡を残しました。

現在、渋沢栄一宅跡には栄一の業績を記した説明板が設置され、旧渋沢家住宅は青森県六戸町に移築されていますが、2023(令和5)年に江東区潮見へ移築される予定です。和風と洋風を巧みに調和させた旧渋沢家住宅は建築史においても貴重とされている建物。

一般公開された際には、ぜひ足を運んでみましょう。

栄一の福住町の邸宅は、明治38(1905)年、現在の港区三田に、そして平成3(1991)年に青森県六戸町へと移り、時代の変遷を経て平成30(2018)年、邸宅の建築を手がけた名工清水喜助に連なる、清水建設株式会社に受け継がれ部材の状態で保管されています。

邸宅の跡地には栄一の業績を記した説明板が設置されています。
和風と洋風を巧みに調和させた旧渋沢家住宅は、建築史においても貴重とされている建物で、その部材は令和元年度、江東区の文化財に指定されました。建物は、令和5(2023)年に江東区潮見(清水建設株式会社敷地内)に移築される予定です。

     青森県六戸町時代の旧渋沢家住宅     

渋沢栄一宅跡

日本初の事業が区内で数多く誕生

1873(明治6)年に大蔵省を退官し、以後、実業界での仕事や社会・公共事業に邁進した渋沢栄一。

区内にて数多くの事業を創立しました。1887(明治20)年、渋沢栄一らによって日本初の化学肥料製造会社である東京人造肥料会社を創立。不作に苦しむ農村を救うことができる肥料を開発し、跡地(大島一丁目)には記念碑が設置されています。

また、栄一が関わったセメント工場の跡地(清澄一丁目)には、「セメント工業発祥の地」と記された石碑が建てられ、深川公園内には渋沢栄一が書いた題字が陽刻されている「園女歌仙桜之碑」も残されています。まちのあちらこちらで栄一の歴史に触れることができる江東区。今、注目の的となっている渋沢栄一の軌跡を辿ってみてはいかがですか?

 

         園女歌仙桜之碑          

 

化学肥料創業記念碑

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