渋沢逸品館 渋沢逸品館

渋沢栄一とゆかりの地【岡山県井原市】

渋沢栄一と岡山井原市のつながり

2024年発行の一万円札の顔となる渋沢栄一は、1864年(元治元年)一橋家に仕え、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し次第に認められていきます。

認められるきかっけになったのが、領主の一橋慶喜(後の徳川慶喜)が京都守衛総督となったため急遽兵備を拡充する必要に迫られ、農兵を集めることとなり、西日本で最大の領地であった備中国へも出向くことから始まりました。

青年期の渋沢栄一肖像(渋沢史料館所蔵)

渋沢栄一、慶応元年(1865年)春、備中へ来る(井原滞在時のエピソード)

 

①剣術の先生をいともたやすく負かす

栄一は、当初農兵募集がうまくいかなかったため、庄屋に剣術家と学者の紹介をしてもらいました。朗盧と語り合った後、領内の剣術の先生と手合わせをしてやすやすと打ち負かしました。この評判が領内に瞬く間に広まり、栄一のもとたくさんの人が押し掛けたといわれています。

 

②栄一が楽しんだ鯛網観光

栄一が、この辺りで何か面白いことはないかと尋ねたところ、毎春、笠岡で鯛網があるということで、朗盧は栄一を招いて興譲館の書生を連れて笠岡へ鯛網観光に出掛けました。鯛網は大漁で、捕れた鯛の料理を肴に酒を酌み交わし栄一はすこぶる上機嫌となったそうです。

 

関わり①【渋沢栄一と農兵募集】

上段のように、領主一橋慶喜(徳川慶喜)が京都守衛総督となって兵備の拡充をすることとなり、栄一の建議によって領内で農兵も募集するということになりました。慶応元年(1865年)、西日本で最大の領地であった備中国へ、栄一自ら赴いて農兵の募集にあたりました。募集当初は難渋していましたが、坂谷朗盧と面会した後、栄一への信頼感、親近感が急速に増し、領内より200人余りの農兵志願者があり、近畿の領内の志願者と合わせると450人を超え、大成功を収めました。栄一は、農兵募集のため備中国へ赴いた際、領内の産物調査、善行者の褒賞を実施し、阪谷朗盧も一橋慶喜に京都へ招かれ、慶喜より直接褒賞されました。栄一はこの成功を機に慶喜に認められ、藩の施策に関わるようになり、人生の大きな転機となりました。

 

関わり②【渋沢栄一と阪谷家】

阪谷家は、朗盧が興譲館の館長を辞め、広島藩に仕えた後、東京へ出て政府の役人となったため一家をあげて上京します。朗盧は、60歳で亡くなりますが、一家はそのまま東京へ留まります。その後、四男の芳郎は、東京大学を卒業後、大蔵官僚となり、大蔵官僚若手のホープとして活躍します。さらに栄一の二女琴子が芳郎のもとに嫁ぎ、阪谷家と渋沢家は縁戚関係になりました。芳郎は、国家予算の編成を行うなど実績を積み、大蔵次官、大蔵大臣を歴任します。大蔵大臣を辞めた後、東京市長(現在の東京都知事)に就任し、東京市の姿勢のかじ取り役として、明治神宮の建立などに尽力しました。

晩年の阪谷芳郎と琴子

 

関わり③【渋沢栄一と馬越恭平】

木之子(きのこ)村出身の馬越恭平は、阪谷朗盧が開いた桜渓塾(おうけいじゅく)で勉学に励んだのち、丁稚奉公するため大阪へ出ます。その後、三井物産に入り商才を発揮し、三井財閥発展に貢献します。恭平は、経営不振の日本麦酒(ビール)再建を引き受け、日本麦酒をビール業界トップの会社として成長させます。さらに、ビール業界再編に携わり、渋沢栄一の協力のもと日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒を合併した大日本麦酒を設立し、栄一の強い要望で初代社長に就任しました。恭平はビール業界へ多大な貢献をし、「東洋のビール王」と呼ばれました。

 

馬越恭平   

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