渋沢栄一と偉人たち【福沢諭吉】3
渋沢栄一と偉人たち【福沢諭吉】3
自分の道を渋沢栄一よりも一足早く歩き出した福沢諭吉。徳川慶喜についていった勝海船舟とは違って明治以降も教育者としての道を突き進んだ。
明治34年(1901年)、67歳で世を去るまで、近代日本発展の基礎をつくっていった。
どんなことを成していったのか。
・慶應義塾の(慶応義塾大学の前身)
・国会開設運動に参加
・「学問のすゝめ」発刊
・「時事新報」発刊
・脱亜思想を唱える
まとめてみよう。。。
海外に出向き、その文化を日本に取り入れた
当時としては珍しく、海外に出向きその文化を日本に持ち帰ったうちのひとり。
それまであった日本の学校や病院の体系を一新し、海外の長所を取り入れた。
それまで庶民には馴染みのなかった肉食や西洋の衣食住も定着させた。
福沢諭吉がいなかったら、現代の我々も常に“和服”で、瓦屋根のままだったのかもしれない。
素晴らしい教育者だった
教育者としても素晴らしい功績を残した福沢諭吉大先生。
彼の言葉で、
『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず』
は有名な言葉で、現代社会の基盤となった。
学問のすゝめ
人間は平等である。
しかし現実はそうではない。
学問を修めたものがよい生活をしているのだから、これからは学問をしよう。
人は平等であるのに、なぜ成功する人、しない人がいるのか、なぜ貧富の差があるのか。それは、学問をしているか、していないかによるというのが、『学問のすすめ』の骨子だ。
また、学者・啓蒙思想家として、少しでも多くの人と知識を共有できるように、たくさんの本を残した。
さらに、英語が得意だった福沢諭吉は翻訳という能力でも人々の役に立った。
保険会社ができたのも福沢諭吉のおかげ
ヨーロッパにあって日本になかった制度のひとつが、保険だった。
災難がふりかかったときには、血族間でなんとかするという封建的な考え方が根強かった日本だが、今では保険の考え方が当たり前となっている。
銀行をつくった
中央銀行の考え方を日本に伝えた。つまり日本銀行の設立に大きく貢献したともいえる。
そして複式簿記を日本に伝えた。「貸方と借方」の読みは、彼の翻訳によるものだといわれている。
渋沢栄一と福沢諭吉の共通点
同じ時代を生きた渋沢栄一と福沢諭吉。同年時代を生き、(福沢諭吉/1835年1月10日-1901年2月3日・渋沢栄一/1840年3月16日‐1931年11月11日)、ともに1万円札の顔の人物であるが、共通点がみられる。
①まず、迷信や封建的差別制度を極度に憎み合理的な考え方を持っていたということ。
御用金を威張りちらして申し付ける代官に反発する栄一、下級士族の父の生き方をみて「門閥制度は親のかたき」といった諭吉。この反骨精神が二人の生き方の原動力になっていたと思われる。
栄一が一度は仕官した明治政府を辞任したのは、明治6年、大蔵省の上役の井上馨といっしょに辞表を出し、政府の財政案は危険だという建白書を発表した。
諭吉も、明治政府の世になると、もう侍はたくさんだといってさっさと平民になり、政府の役人にもならなかった。
②海外を見る経験があったこと。
外国を知ることで衝撃を受け、日本がこれでいいのかと疑問に持つところが原点にあった。どちらも国の未来を憂い、どうにかしようとしていた。
③個人の独立精神を促している。「何事も人に頼らず自分の力で行い、自己の品格や尊厳を保つ。」
渋沢栄一は、日本資本主義の父として著書「論語と算盤」の中で「溌剌(はつらつ)たる進取の気力を養い、且つ発揮するには、真に独立独歩の人とならねばならぬ」と述べ、「独立自営」の精神を強調している。
こうして個人の独立を促し「実業に活かさなければ学問ではない」という渋沢栄一と、「読書だけが学問ではなく、実学を通じて一身の独立を果たすこと」を述べた福沢諭吉。
いずれもが、その背景には、渋沢栄一は農家の出、福沢諭吉は下級武士の家柄で、二人とも身分的に恵まれなかったことや、挫折経験、海外渡航で見識を広めたことなどが大きく影響していると言えるのかもしれない。
ちなみに、二人の独立精神が結集して完成した現存する建物として、かの東京丸の内の帝国劇場が挙げらる。1905年に帝国劇場新設の委員長を務めたのは、当時何十社もの経営に関わっていた渋沢栄一だったが、福沢諭吉も劇場設立の議論が上がる前(1893年)に、すでに丸の内界隈に劇場を建設することを、当時の岩崎家(三菱)の関係者に手紙を送っていた。三菱が丸の内の広大な土地を取得して開発していることに目を付け、古いしきたりを改め、芝居の地位を高めて学者が芝居を仕事にするように計画し、劇場建設を呼びかけていたのだ。実際、1894年に日清戦争が勃発して計画は中止になるも、福沢諭吉の死後、1911年に帝国劇場が完成し、今日も数多くの舞台が行われている。
当時の帝国劇場
渋沢栄一と福沢諭吉の関係
こうして個人の独立精神の重要性を説いた渋沢栄一と福沢諭吉だが、お互いどう思っていたのだろうか?二人が初めて会ったのは1869年、渋沢栄一が旧制を改革するため、大隈重信から諮問機関の「改正掛(かいせいがかり)」の長に任命された時だった。渋沢栄一は貨幣制度や租税改正、度量衡改正、駅逓制度整備などを提言するため、『西洋事情』の著者で外国の諸制度に詳しい福沢諭吉に意見を求めた。この時渋沢栄一が31歳、福沢諭吉が37歳だった。福沢諭吉に刺激を受けた渋沢栄一は、やがて大蔵大丞(おおくらだいじょう)に昇進し、紙幣頭として日本の諸制度を整備していく。その後も事あるごとに関わりを持ち、日本の近代化に尽力する二人でしたが、唯一『論語』に対しては真逆の見解を示していた。渋沢栄一は『論語と算盤』の中で「算盤は論語によってできている。論語もまた、算盤によって本当の経済活動と結びついてくる。だからこそ論語と算盤は、とてもかけ離れているように見えて、実はとても近いものである」と述べている。この『論語と算盤』の精神が、現代にも続く企業や団体設立のスピリットになっていったと言えるだろう。一方で、福沢諭吉は『福翁自伝』や『学問のすすめ』の中で、論語や儒教に代表される孔子の思想を「民衆の心を権限で束縛する道」として、「二千年前の教えをそっくりそのまま学ぼうとする者は、語る資格のない人」として、儒教の教えが日本の近代化を阻んでいると痛烈に批判していた。こうした『論語』に対して正反対の思想を持つようになった背景には、江戸時代のいわゆる「士農工商」の身分制度の中で、渋沢栄一が農民出身で、福沢諭吉が下級藩士(武士)だったという身分の違いがあったからだとも言われている。
まとめ
二人に共通点として最も我々に示しているところは、『生涯に渡って学び続けたということ。』
人は何歳になっても成長できることを、二人の生き方を通じてあらためて考えさせる。
技術化が進みキャッシュレス決済も増え、貨幣流通の減少も取り沙汰される中で、2024年に新紙幣が発行される頃には、渋沢栄一の精神がどこまで日本の経済に再び反映されていくのだろうか。
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