青天を衝け「栄一、海を越えて」40話
歴史はその時代に生きた人それぞれが主役となった視点からみたものは景色が違ってくるものだ。
最近は、子供の頃教科書で学んだ内容から新たな史実が発見されてその内容が書き換えられているなんていうこともある。
渋沢栄一も、昭和生まれの人たちが学んでいた教科書からは、さほど明記されていなかった。
近代日本を細かく明記されている教科書もあまりなかったかもしれない。
ところが、気が付けば、昭和から平成、令和と時代が変わっている。
渋沢栄一は、こんなにもいろいろな人生を生き抜き、日本のために走り続けたのかと思うと、今も志の高い人もいるが、彼以上の人物を見つけることは容易ではない。
日本のみならず異国へとその志が響き、人と人の輪がつながっていくこをを願いたい。
あらすじ
アメリカでは日増しに排日の機運が高まっていた。
実業の第一線を退いた栄一(吉沢 亮)は、日米関係を改善しようと妻・兼子(大島優子)と渡米。
特別列車で全米60の都市を巡り、民間外交に奔走する。
しかし、その道中、長年の友、伊藤博文(山崎育三郎)暗殺の知らせが飛び込む。
一方、渋沢家では、篤二(泉澤祐希)が再び問題を起こし、責任を感じた栄一は苦渋の決断を下す。
そんななか、慶喜(草彅 剛)の伝記の編纂(へんさん)は大詰めを迎えていた。栄一は慶喜から意外な言葉を聞かされる。
徳川家康の語り
さて慶喜よ、よくぞ生きていてくれた。
徳川の世が閉じて以来励み続けてくれた者も次々と亡くなった。
だが、栄一はまだだま止まりませんよ。皆も私と一緒に見届けて欲しい。。。
ドラマを観て思うこと
栄一は、実業界を引退する意向を実業家たちに告げ、60以上もの会社を辞職することにした。
アメリカは日本からの移民も多く、日本人は安い給料でもよく働くということもあり、アメリカ人の仕事を奪うなどという風潮が流れ、差別的行為を受けるようになっていた。
そんなアメリカでの日本人移民排斥の動きを受け、アメリカの人々に日本人を理解してもらうことを目的に、兼子や実業家らとともに渡米。
特別列車でアメリカ大陸を横断しながら、60の都市を訪問し、公演や演説を行うのだった。
「『日本人は友だ、経済上も人としても仲よくしよう』と心を込めて告げて回れば、いくばくかの理解につながるはずだと……。」(栄一)
実業家と大学教授、新聞記者からなる渡米実業団のメンバーは、各地で工場、エネルギー施設、発電所、農場や大学、福祉施設などを訪ねた。
そしてタフト大統領と面会し、移民に対する差別問題や外交について話すことになった。
「これから先、アメリカは日本に挑むつもりです。“平和の戦争”を。すなわち、“商売の戦い”を。」(タフト大統領)
そんな中、伊藤博文が暗殺されたことを聞き、ショックを受ける。
予定していたスピーチを中止してはどうかと言われるが、堂々とした挨拶と真摯(しんし)な訴えた。
「我々はあなた方の友だ。日本人移民はアメリカから何かを奪いに来たのではない。
この広大な地の労働者として役に立ちたいという覚悟を持ってはるばるこの地にやってきたんです。それをどうか、憎まないでいただきたい。大統領閣下は私に“Peaceful War”とおっしゃった。しかし私はあえて申し上げる!“No War!” “No War!”だ!どうかこの心が、閣下、淑女、紳士諸君、世界のみんなに、広がりますように……。」(栄一)
多くのアメリカ人から賞賛を得るのだった。
時代は大正。喜作と栄一、ふるさとに戻り思い返す。
「いくら懸命に励んだところで、なせることなんかほんのわずかだ。諦めるわけにはいかねぇ。」(栄一)
「少しは諦める心も覚えろ。誰もがおめぇみてぇに、前ばっかり向いて生きられるわけじゃねぇんだからな。」(喜作)
幼いころから栄一と共に生きた渋沢喜作は、74歳で生涯を終えることとなった。
徳川慶喜の笑顔がとてもよかった回。
栄一は、『徳川慶喜公伝』の完成が近づき、慶喜から原稿の修正を受け取る際、ずっと共にいてくれたことへの感謝を伝えられるのだった。
「ありがとうございます。これでようやく、正しく御前様のことを、また幕末の世の真相を世間に知らしめることができる。」(栄一)
「いつ死んでおれば徳川最後の将軍の名を汚さずに済んだのかと、ずっと考えてきた。
しかし……ようやく今、思うよ。話をすることができてよかった。楽しかったなぁ。
尽未来際(じんみらいさい)、共にいてくれて……感謝しておる。」(慶喜)
二人の主従関係があの深谷での出会いによって平岡円四郎に取り立てられてから、一ツ橋の家来としてチャンスをもらい、その、主君慶喜を支え、互いを尊重しつつ大事にしてきた関係。
とてつもなく強い絆を感じ、強い感謝の念がお互いから溢れていた。
「快なり!快なり!快なり!快なりじゃ!・・・」
すっきりとした慶喜の最期。
徳川慶喜は77歳の天寿を全うした。徳川歴代将軍一の長寿だった。
「生きていてよかった」という慶喜のセリフはこの物語のテーマだと思う。
慶喜は、周囲からあれだけ恨まれたり責められたりしても、自分の奥にあるものを一切語らず、才能があるのに一歩引いた目線で自分のことを卑下しているような所もあった。
そんな慶喜から初めて「生きていてよかった」という言葉を聞いて、長年仕えた栄一としては、心から「よかった!」と思った瞬間だった。
草彅剛の演技は最高だった。
外に懸命に生きた栄一だが、家の中までは難しかったのかもしれない、偉大な父をもった篤二もまた相当のプレッシャーだっただろう。
「浅はかだった。外ばかり案じて、一番近くにあったはずの篤二の心を、あいつのつらさを理解できていなかった。」(栄一)
家を出て妾宅を持った篤二を廃嫡とし、篤二の息子、孫の敬三に自分の跡を継いでほしいと頼むのだった。
「どうか農科ではなく、法科に進んではもらえないだろうか。
ゆくゆくは実業界で働いてもらいたい。私の跡を取り、銀行業務についてほしいのだ。」(栄一)
家を守るため、家族を守るため、これからの渋沢家はどのようになっていくのだろうか。
栄一の余生は。。。来週で最終回。
一気に時代を駆け抜けているが、最後から目が離せない。
ゆかりの地の紹介
明治30年から東京に移り住んだ徳川慶喜。
銀座に買い物へ出かけたり、都内で写真撮影を行ったりと、穏やかな時間を過ごした。
慶喜が晩年を過ごした屋敷は、800坪の広大なものであったという。
今も残る銀杏(いちょう)の木が当時の面影をしのばせている。
徳川慶喜公屋敷跡
(現 国際仏教学大学院大学)
慶喜公屋敷大銀杏
大正2年。慶喜はこの屋敷で生涯を終えた。
葬儀の参列者は6,000人を超え、沿道には多くの人が集まったという。
徳川慶喜公墓所
栄一は慶喜の死後も伝記編纂(へんさん)に力を注いだ。その序文には慶喜の真意を後世に伝えたいという、栄一の熱い思いが込められている。
栄一の慶喜への真心は、生涯失われることはなかった。
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