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渋沢栄一ゆかりの地「埼玉深谷」後編

渋沢栄一ゆかりの地 埼玉深谷

埼玉は渋沢栄一の生誕の地として知られている。渋沢栄一は500もの企業に創設または関与、そして全国的に、渋沢栄一が讃えられているゆかりの地はあるが、埼玉ほど集中しているところはない。

色々な角度からゆかりの地を歩いてみると、新たな発見があるに違いない。ここでは、まず生誕の地「深谷」から紹介しよう。(後編)

 

⑨日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設

近代的建築による官庁街の整備を企図した明治政府の意向を受け、明治21(1888)年に操業を開始した機械式煉瓦工場。ここで製造された煉瓦は、東京駅丸ノ内本屋や旧東宮御所(現迎賓館赤坂離宮)などに使用されており、日本の近代化に大きく寄与した。
会社は平成18(2006)年に約120年の歴史に幕を下ろしたが、現在も旧事務所、ホフマン輪窯6号窯、旧変電室、備前渠鉄橋が残っており、国指定重要文化財になっている。

旧事務所は煉瓦史料館として貴重な文書や写真などを展示している。

日本煉瓦製造株式会社は、近代的な官庁街や鉄道等の整備を強く推進していた明治政府の意向を受け、明治21(1888)年に操業を開始した。当地で製造された煉瓦は、東京駅丸ノ内本屋や旧東宮御所(現迎賓館赤坂離宮)などに使用されており、日本の近代化に大きく寄与した。しかし、時代とともに煉瓦需要が減少したこと、安価な外国産煉瓦の市場拡大を原因として平成18(2006)年約120年の歴史に幕を下ろした。
工場の一部として「ホフマン輪窯6号窯」「旧事務所」「旧変電室」が残り、専用線であった「備前渠鉄橋」とともに平成9年5月、国重要文化財に指定され、それらは日本煉瓦製造株式会社の事業清算の際に、平成19年度に深谷市に寄贈され、現在、市が所有、管理を行っています。また、市ではこれらの施設の保存・活用のための作業を進めている。
ホフマン輪窯は、深谷市の旧煉瓦製造施設ホフマン輪窯6号窯の他には、栃木県下都賀郡野木町、京都府舞鶴市、滋賀県近江八幡市にそれぞれ1基が現存するのみで、全国では4基しか残されていない貴重なものです。 ※ホフマン輪窯6号窯は現在保存修理工事中のため見学できません。

【栄一との関係】

明治政府からの要請を受けて、栄一が設立・運営に携わった。
良質な粘土が取れること、舟運が見込まれることなどから栄一の実家近くの上敷免を工場設立地として推薦した。

   「礎 渋沢栄一と赤レンガ」

○住所:深谷市上敷免28-10

〇開館時間:年末年始を除く土曜日・日曜日の9時~16時(15時30分までに御入場ください。)

○問い合わせ:048-577-4501(深谷市文化振興課)

現在も深谷市内や深谷駅近くにある中山道周辺には日本煉瓦製造株式会社が製造した煉瓦を使用した建造物が点在している。

滝澤酒造

○住所:深谷市田所町9-20

藤橋藤三郎商店

○住所:深谷市仲町4-10

丸山酒造

○住所:深谷市横瀬1323

伊勢屋だんご

○住所:深谷市仲町2-23

⑩あかね通り

日本煉瓦製造株式会社の専用鉄道跡を遊歩道に整備した通り。沿線には福川鉄橋、備前渠鉄橋があるほか、煉瓦を活用した路面や植栽帯、栄一の雅号がついた「青淵歩道橋」などもある。

【栄一との関係】

栄一が設立・運営に尽力した日本煉瓦製造株式会社の専用鉄道跡を遊歩道に整備した。

 

○所在地:深谷駅~旧煉瓦製造施設

 

⑪JR深谷駅

現在の深谷駅は平成8年(1996年)に竣工された。駅北口には「渋沢栄一からくり時計」が設置されている。

【栄一との関係】

深谷駅は、栄一が設立・運営に携わった日本煉瓦製造株式会社(深谷市)で製造された煉瓦が東京駅の丸ノ内本屋に使われていることを受け、丸ノ内本屋を模して造られた。現在、上野東京ラインで東京駅から深谷駅まで一本でつながっており、不思議な縁を感じる。

 

○住所:深谷市西島町3-1-8

⑫岡部藩陣屋跡

江戸時代に栄一の出身地・血洗島などを治めていた岡部藩の陣屋跡。同地には、幕末の兵学者で近代砲術の祖・高島秋帆が一時幽閉されたことを記す石碑が残っている。

【栄一との関係】

栄一の出身地である深谷市血洗島などを治めていた岡部藩に、高島秋帆は冤罪で一時幽閉されていた。高島秋帆は栄一に影響を与えた人物のひとりだ。
また、栄一は板橋区にある「高島秋帆先生紀功碑」の企画に賛同し、寄付もしている。

 

○住所:深谷市岡部1201

○問い合わせ:048-577-4501(深谷市文化振興課)

 

■高島秋帆(たかしましゅうはん)1798-1866

高島秋帆は、寛政10(1798)年、長崎の町年寄の家に生まれた。名は茂敦といい、通称は四郎太夫、秋帆は号である。

 父の跡を継ぎ、町年寄や鉄砲方を勤めるかたわら、広く蘭学を修め、特にオランダ人を通じ、砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始した。天保年間には、欧米のアジア進出の危機に備えて、砲術の改革を幕府に進言するなどした。

 天保12(1841)年、秋帆44歳のとき、幕府の命により、江戸近郊の徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で西洋式の調練を実施し、西洋式の兵術・砲術を紹介した。その結果、幕府は幕臣にも西洋式の兵術・砲術を学ばせることとなり、伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門をはじめ、多くの幕臣が彼のもとに入門した。

 しかし翌13(1842)年、秋帆は中傷により獄に投ぜられ、弘化3(1846)年から赦免される嘉永6(1853)年まで岡部藩預かりの身となった。写真の碑がある場所は、当時の岡部藩陣屋の一角であり、この石碑の立つ場所に秋帆は幽囚されていた。岡部藩では客分扱いとし、藩士に兵学を指導したと伝えられている。その後、江川太郎左衛門ら、秋帆の門人たちは幕府に願い赦免に尽力、ついに嘉永6(1853)年、ペリー来航と共に幕府は近代兵学の必要性に迫られたことから急きょ秋帆を赦免した。

 この後、秋帆は幕府に仕え講武所教授方頭取、講武所奉行支配などをつとめ、慶応2(1866)年、69歳で没した。

 日本の西洋式兵学の先駆者である。

 

⑬岡部六弥太忠澄墓

平安末期から鎌倉初期に活躍した武蔵武士・岡部六弥太忠澄の墓。埼玉県指定史跡。

岡部六弥太忠澄は、猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が岡部の地に館を構えたのを機に岡部氏と称するようになった。
忠澄は、忠綱から数え三代目にあたり、治承・寿永の乱(1180年~1185年)の際には、源氏方につき西国にも出兵している。特に一の谷の戦いで、平家方の名将平忠度を討った場面は、平家物語にも登場する。

忠澄の墓は、普済寺地区の一角にあり、残りの良い五輪塔が3基並んでいる。このうち最も大きいものが六弥太のものとされている。六弥太の墓石を煎じて飲むと子宝に恵まれるという伝承があり、このため五輪塔が一部削られ変形している。

【栄一との関係】

岡部六弥太の墓所を大正年間に修理した際、栄一は寄付をした。石碑に名前も刻まれている。

 

○住所:深谷市普済寺811-1

○問い合わせ:048-577-4501(深谷市文化振興課)

 

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