青天を衝け「篤太夫、パリへ」22話
パリの万国博覧会に向かった篤太夫。約2か月かけての長旅だった。
横浜港から出発し、その間、途中で上海、香港、サイゴン、シンガポール、セイロン、アデンを通り、スエズから汽車に乗りアレキサンドリアへ、そしてシチリア島、マルセイユを経由してパリへ到着。
建築物や街並み全てが新しく、見るもの全てが斬新に映ったことだろう。初めて食したバター、コーヒーもどんな感じだったのだろうか。上手い!とは言っていたが。。。
また、ここからが幕末のヒーロー達、大久保一蔵(利通)(石丸幹二)、五代才助(友厚)(ディーン・フジオカ)等、次々とでてくるのも期待したい。
あらすじ
パリに到着した篤太夫(吉沢 亮)たちは、さっそく万国博覧会の会場を視察。蒸気機関やエレベーター…最先端の西洋技術を目の前にして度肝(どぎも)を抜かれる。しかし、日本の展示ブースに行くと、そこには薩摩の紋が高々と掲げられていた。幕府使節団は薩摩に抗議するが、モンブランと五代(ディーン・フジオカ)が裏で手を引き、幕府と薩摩は同格の政府であると風聞が流れる…そんな中、昭武(板垣李光人)はナポレオン三世の謁見式に出席し、堂々と慶喜(草彅 剛)の名代としての役目を果たす。そのころ日本では、慶喜が次々と幕政改革を打ち出していた。
ドラマを観て思うこと
時の将軍・徳川慶喜の名代としてフランスに派遣された徳川昭武(慶喜の弟、数え年で当時15歳)一行が、慶応3年、パリ万国博覧会を見学した。昭武はその2日前には、時のフランス皇帝ナポレオン3世に謁見、慶喜より託された国書を奉呈している。
徳川昭武一行の集合写真 マルセイユにて。
慶応3年2月29日に徳川昭武一行はマルセイユに到着。
この写真は一行がマルセイユ滞在中に宿泊した「ヲテル・デ・マルセイユ」で撮影されたもの。(渋沢史料館所蔵)
ナポレオン3世の治世下にあって盛大に開催された1867年のパリ万博は、日本が初参加した万博であるが、このとき、幕府のほか薩摩藩と佐賀藩が出展していた。
余談ではあるが、7月1日には、出品物に対する賞牌授与式が行なわれ、幕府の出展した養蚕・漆器・工芸品・和紙に対し第一等の大賞牌(グランプリ)が贈られている。
ドラマえでは、篤太夫達が万国博覧会の日本ブースを見に行き、“JAPON(日本)”と“LIOU-KIOU(琉球王国)”2つの展示があることに驚くのだった。
「なぜ薩摩の品が日の本の品と区切られてこっちにあんだい。これではまるで、日の本と琉球と、いや日の本と薩摩と、国が2つあるみてぇじゃねぇか。(篤太夫)」
薩摩に抗議し、日本からの出品はすべて日の丸の旗の下に置き、幕府の品には“大君(たいくん)”グーヴェルヌマン(政府)、琉球の品には“薩摩太守(さつまたいしゅ)”グーヴェルヌマン(政府)という表現を入れることで和解するが、新聞で「日本は一つの国家ではなく連邦国」「将軍とは、日本の中の有力な一大名にすぎない」と伝えられてしまうはめになった。
新聞より“日本は連邦国。将軍の政府はその中でもやや広く、やや力があるにすぎないことが分かった”と書かれてしまう。
また、使節団の滞在費用がかさみ節約が必要になったため、ホテルから安価なアパルトマン(アパート)に住み始めることとなり、民部公子(徳川昭武)にも見合う家を探し、篤太夫の本領発揮、家賃の値下げにも成功する。
そして、忙しい公務の合間をぬってパリの街中を見物し、ナポレオン一世の墓や廃兵院を訪れた。
国の金で戦争で負傷した兵士の治療を行っているということを聞いた篤太夫はとても感心する。
「金は国が出します。国のための戦いでけがをした兵士の面倒を見るのですから、当たり前のことだ。(カション神父)」
「国の金で治療とは…これなら、家で寝ているよりよほど早く治るし、兵たちも少しは心安んじて戦に出られるかもしれねぇ。(篤太夫)」
ここで見聞きしたことが、それからの日本に、渋沢栄一の後世の活動に非常に影響をもたらしていることがうかがえるシーンであった。
また薩摩の行動で、一歩一歩大政奉還への道に進んでいくのが詠み取れた。
ゆかりの地の紹介
慶応3年。パリ万博へ参加するために、栄一は徳川昭武らと共に横浜港を出港
。最初の寄港地・上海で西洋の技術を目の当たりにした。
エジプトでは、スエズ運河の掘削工事を目にし、全世界の人々の利益を目指す大事業が民間によって行われていることに深い感銘を受けたという。
およそ2か月の旅を経て、一行はパリに到着。
万博の会場となった場所には、現在エッフェル塔が建っている。
千葉県松戸市にある歴史館には、万博を前に慶喜が昭武に贈った陣羽織が残されています。昭武は慶喜の思いが詰まったこの陣羽織を身にまとい、たびたび外交の場に赴きました。
『緋羅紗地三葉葵紋陣羽織』 昭武所用
戸定が丘歴史公園
千葉県松戸市には、昭武が精魂を込めて築いた邸宅と庭も残されている。戸定邸(とじょうてい)は、幼少のころから幕府に尽くした昭武が安らぎの時間を手に入れた場所だったという。
戸定邸
徳川御三家のひとつ、水戸徳川家を継いだ徳川昭武は、最後の将軍となった兄の慶喜を支え、激動の幕末の渦を乗り切り、明治維新後は松戸市の戸定邸に居を構えて、公職の合間に趣味の写真撮影を楽しんでいた。
昭武は慶喜の期待を一身に背負い、栄一と共にパリへ旅立っていくのだった。
アクセス 戸定邸 JR「松戸」下車 徒歩10分
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